twitter病につき文章書きリハビリ中。
宝石は好きよ。
見るのが好き。
でも身につけるのは別に好きじゃあない。
だから自分の物にしたい気持ちはない。
フィギュアスケートいいね。かっこいいね。
だけど自分が跳びたいとは思わない。
上手い人を見てると純粋に楽しめる。
音楽。
音楽が、純粋に楽しめない。
自分もやりたくなる。
がんばれば自分にもできるんじゃないかと思う。
もっと前からもっとがんばっておけば、自分にもできたんじゃないかと思う。
「のだめカンタービレ」を見ると面白さとともに一抹の哀しさを覚える。
どうして自分はああいうふうに音楽に真剣になれなかったんだろうと。
学生の頃、合唱団の先輩たちの歌を聞いて
自分たちにはこんな素晴らしい演奏はできないと涙した。
そこにあるのは、演奏に対する感心と尊敬と、
自分にはできないという諦めだった。
自分で努力して素晴らしい演奏家になることは諦めているのに、
素晴らしい演奏をしたいという思いだけがある。
素人なりにでも、努力して練習して、やれるだけやればいいのに。
気力がない。
がんばることができない。
音楽だけじゃない。
お芝居も、お話を書くことも。
努力はできないのに、上手くなりたいと思ってる。
だから、上手い人を見ると作品を楽しむ気持ちとともに
チクチクとした心の痛みを感じる。
自分より若い人だとなおさらだ。
子供なのにものすごく巧みにピアノやエレクトーンを弾く子を見ると
ムカつきすら覚える。
…っていうのは、最近わびしいことのほんの一部分なんだ。
「親父にもぶたれたことないのに!」で思い出した話。
親にぶたれた記憶はない。怒鳴られたことはあるけど。
先生に殴られたことは何度かある。
よいこぶってはいたがよく忘れ物をしたし、高校以降は居眠りもしたし。
その中でも未だにはっきり覚えているのは、
自分は悪くないのにとばっちりで殴られたことだ。
小学校の頃。
クラスの誰かが何か悪いことをした。何をしたかは覚えていない。
先生はクラス全員の前で「誰がやったの?名乗り出なさい」と言った。
しばらく待っても、犯人は名乗り出なかった。
「じゃあ、やった人がわからないので全員を殴ります」
先生はクラス全員の生徒の頭をご丁寧にゴッツンゴッツンと殴っていった。
けっこう本気で痛かった。
泣いた。
自分は全然悪くないのに殴られた、そのことが腹立たしくて仕方がなかった。
自分は誰が悪事をはたらいたのかなんて全然知らなかったし、
やりそうな奴と友達でもなかった。
当時40人前後いたクラスの人間のうち、数少ない友達以外の
クラスメートのやってることなど預かり知らぬ。
全員の挙動を互いに見張っていろというのは無茶な話だ。
悪いことをしたら正直に名乗り出るよう、普段から習慣づけておけというのは
子どもにはさらに無茶な話だ。
そんな形式だけの「共同責任」は大嫌いだ。
甘んじて殴られて黙ってた奴らはみんな犯人の仲間か?
それとも何も考えてないだけか?
当時の私は、そんな思いを言葉にすることも先生にぶつけることもできず、
ただただ泣いていた。
みんなは、単に痛くて泣いてるんだと思ったことだろう。
その出来事で、悪事を働いた「犯人」は反省したかもしれない。
だが、そいつ以外の、悪いことをしてないのに殴られた生徒はどうか。
「なんでオレが殴られなきゃいけないんだ」
「何この先生ムカつく」
「誰だよやった奴」
などというマイナス感情でいっぱいになる。
「クラスメートの悪行を止められなかったボクが悪いんだ」なんて
殊勝なことを思う生徒がいるだろうか。
もしそんな人が当時のクラスの中にいたら、
私はいじめられっこにはならなかったと思う。
先生は、たった一人(あるいは数人)の生徒の反省を促すために、
他の生徒全員に黒い感情を植え付けたのだ。
以下妄想。
…ないないないない(´-`)ノシ
るーるーるるーるーるるー(’’)♪
猫川柳の週めくりカレンダーを買って貰いました。
先週の一句は
人の世は
面倒だから
ほどほどに
…=□○_
面倒だけど、それ以上に楽しいことがあります。人の世は。
ですから、未だに他人との繋がりを切れないでいます。めんどくさいのにね。
たまに、ねこは1日メシ食って寝て走り回って寝てひなたぼっこして
退屈じゃないのかなーと思うことがあります。
でもそんなの人間が自分の感覚に合わせて勝手に想像していることですから!残念!
募金とかしようぜ!
レスがつくとえんぴつマークが出ます